リタ研ブログ 大庭夏男の早期退職法

リタイアメントの生活改善研究ブログ

「奴 隷」について思いを馳せてみよう

   

過日「大庭夏男はセミリタイアメントをしています」と自己紹介したら、ひとりの男性が「そりゃもったいない」と言いました。

何がもったいないのか・・・
一部忖度が入りますが、どうもその男性は、まだ働ける年齢で、働けそうな様子なのに、働かないのは「もったいない」と言いたいようでした。私はボランティアや地域活動や家事で働いているとの反論をしましたが、男性はその先意見を言いませんでした。

セミリタイアを始めてから、こんな反応がチラホラあります。主に男性に多いです。女性の反応はもっとストレートで「体が動くのに会社辞めるなんて、あり得ない!!」と、まるで私は人じゃないみたいな。面と向かってそう発言した女性は今まで一人だけでしたが、陰でもっと言われています。

私は「働けるのに働かないのはもったいない」ようなオピニオンを見聞きするたびに「奴 隷」の二文字を考えます。ついでに牛馬のことも考えます。

なぜなら彼らが意味する「働く」というニュアンスは、決してアクションをするということには留まらず「誰かの役にたつ」もしくは「お金をたくさん稼ぐ」ということを内在させているように思えるからです。

「働いて誰かの役にたつ」というのは私は賛成!です。そうあるべきです。

ただ、誰かの役にたつことが「誰かを満足させる」に置き換えることはそう不自然ではないでしょう。このへんから少し怪しくなってきます。誰かを満足させるためには、その誰かがやって欲しいことを叶える必要が出てきます。その誰かと自分にもし強者と弱者の関係が少しでも入り込むと、もうその先は支配者と「奴 隷」の関係の相似形だと思われてまいります。

さらにそこにお金が加わると、これはもう嫌でもやるしか道が無いという、自由が失われた「奴 隷」の世界と同じではないか?と私は考えます。

思いは「奴 隷」の方に飛びます・・・
彼らは毎日酷い扱いを受けていたと一般には考えられます。そういう場合もあっただろうし、きっと現代でも実質「奴 隷」の方々はそんな状況かも知れません。
しかし彼らは人間ですから牛や馬のように頑丈ではありませんので、食う物を与えず、水も飲まさず、鞭で打って無理やり働かせるとすぐ死んでしまうでしょう。彼らは「奴 隷」商人からお金を払ってオーナーが買ってきた存在で、きっとオーナーはその彼らをどうやったら長く働かせることができるかを考えたはずです。子供を産ませて育て上げたら次の労働力になるし、逆に反乱させたらオーナーが危険に晒されるから、そうならないように適度に息抜きさせたに違いないと私は思います。

ただ、オーナーが意図する以外の事は鉄拳を持って制したことでしょう。そうやって彼らはオーナーの役に立ち、それなりに制約社会の中でまあまあなんとか暮らして行っていた、みたいな世界ではなかったのだろうか?と想像します。なぜなら彼らが解放された時点では実にたくさんの拘束されていた人達が解放されたからです。でも一方では実にたくさんの人々が命を落としたことでしょう。その理由は休みたくても休めず、無理してオーナーの役にたつことを強いられていたからではないでしょうか。

ある日、まだ十分に働ける「奴 隷」が一人、他のオーナーに売られて行きました。しかしその新しいオーナーは買った彼に今までのようなキツい労働をさせずに、今まで以上の自由時間を与えたとします。このとき元のオーナーは、新しいオーナーに「なんてもったいないことをする」と思うのではないでしょうか。

このときの「もったいない」のニュアンスと、上述の男性が言うところの「もったいない」は、私から見ると瓜二つに見えます。

でも今では「奴 隷」もオーナーも居ませんから、誰からも拘束されないハズなのに、いったいなぜ私には瓜二つに見えるのでしょうか?私は社会がオーナーに思えてなりません。

社会の二文字をひっくり返して「会社」にしたらとても釈然とします。だから私は会社を辞めました。

でも会社を辞めて自由になっても上述の男性のように「もったいない」と言われます。この現象を支える仮説は、今の社会は、人は働けなくなるまで働いて社会に貢献しろ!と強い考え方の潮流があるから。こう私は考えます。

そこで私はこう考えました。
もし私の好き勝手を受け入れて、私自身が満足できるような社会貢献ができるなら、私は喜んで、それこそ寝食忘れるぐらいのパワーで社会貢献しましょう。
だけど、私を拘束して働かせるつもりなら、私は断固それを拒否します。

だから私は滅多に高額の収入にはありつけません。

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